"彼女のやさしい眼差しや、悲しげな風情の魅力ゆえに、あるいはむしろ、私を破滅へと引きずりこもうとしていた運命の力ゆえに、私は一瞬たりとも答えをためらうことができませんでした"1731年初版の本書はファム・ファタールを描く最初期作品、ロマン主義文学の始まりとされる恋愛悲劇。
個人的に主宰する読書会の課題図書として手にとりました。
さて、そんな本書はカトリック教会の聖職者にして小説家であった著者が、。イエズス会学校で学び、幾度か聖職を離れ軍に入隊したり、逃亡して外国へ行った経験を下敷きにして執筆した7巻からなる自伝的小説集『ある貴族の回想と冒険』の第7巻、正式な題名は『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』とされる作品で。将来を期待された良家の子弟、デ・グリューが、街で偶然に出会った美少女マノンに心を奪われ、駆け落ち。夫婦同然の生活を始めるも、放蕩癖のある彼女との日々はひたすらに破滅と、数々の罪を共に犯す道へと歩んでしまうことへとなってしまうのですが。。
まず、本書の前に牧歌的な古代ギリシャの古典恋愛小説『ダフニスとクロエ』を読んでいたことから、冒頭のデ・グリューがマロンと出会って、即駆け落ち、そして間男のBが現れるまでの展開の早さに驚き、呆気にとられてしまいました。
一方で、本書は18世紀の出版当時はそれほど有名ではなかったらしいのですが。19世紀のロマン主義の到来によって『情熱の礼賛、恋愛の希求、個人の自由』といった【ロマン主義の特徴を備えた傑作】として再評価され(デ・グリューはさておき)ヒロインのマノン崇拝が始まったことを知り、芸術の評価とは面白いものだなとしみじみ。
ファム・ファタール、ロマン主義作品好きな方、破滅へと続く作品好きな方にもオススメ。
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マノン・レスコー (岩波文庫 赤 519-1) 文庫 – 1957/6/25
- 本の長さ290ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1957/6/25
- ISBN-104003251911
- ISBN-13978-4003251911
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1957/6/25)
- 発売日 : 1957/6/25
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 290ページ
- ISBN-10 : 4003251911
- ISBN-13 : 978-4003251911
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- - 649位フランス文学研究
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三好常雄
小デュマの小説『椿姫』の文中にはマノン・レスコーの名が頻出する。アルマン・デュヴァルが愛人のマルグリット・ゴーチェに『マノン・レスコー』を読ませているのもその一例だ。両小説の構造も似通っており、『椿姫』(1848)が一世紀前に書かれた『マノン・レスコー』(1731)の「書き換え」であることは明らかである。
フランス革命を挟んだこの100年間に何が起きたのだろうか。永竹由幸氏著『オペラになった高級娼婦』によると、この間に起きたのはカトリックの性道徳の変貌で、18世紀のような教会による性の「押さえつけ」が、19世紀にはほとんどなくなったのだそうだ。そういった文脈で読むと、マノンの行動は抑圧に対する激しい闘いとして読め、マルグリットのほうは、性に対する抑圧が減った分だけ内省的になったとも読める。小デュマはこの風潮を巧みに利用し、マノン・レスコーを「男にとって都合の良い女」マルグリット・ゴーティエに落とし込んでしまったという訳だ。男にとって女の「自己献身」は安心して読めるが、女の「自己解放」には戸惑い、尻込みしてしまうところがある。女として自律するマノンは現代フェミニストの権化たり得ると思う。
物語は名門の出である17歳の学生、シュヴァリエ・デ・グリューが修道院に入るためにやってきた年下のマノン・レスコーに一目惚れしてしまうところから始まる。マノンの出自は明らかでないが、近衛兵の兄がおり、付き添って来た老監督官(召使い)に向かって、「修道院入りは明日に延ばした」と勝手に予定変更が出来るところからも、中流以上の家の出と推察される。奔放な娘の行く末を懸念した親によって意に添わない修道院に入れられようとしているのである。シュヴァリエも彼女を見た途端に「官能の感情」に捕らわれた、と正直である。二人はその晩のうちに遁走し、「お互いの愛撫において慎み」がないほど身を任せ、「結婚の計画」を忘れてしまう。彼女の傍にさえいられれば満足なシュヴァリエに対して、贅沢こそが生きる喜びであり、それ故に美しさが更に増す彼女と一緒に暮らすには、「恋愛にも金が要る」。それから3年余りのうちに、マノンが金持ち貴族の誘惑につられてシュヴァリエを捨てること3回、マノンがもくろむ詐欺行為でシュヴァリエが牢獄につながれること2回、脱獄1回。ついには父からも見捨てられる。捕らえられ、アメリカに流刑されるマノンについてヴァージニアに渡るが、正式な夫婦と認められず、マノンが開拓村住民と強制結婚させられるのを逃れて荒野をさ迷う途中、マノンが死んでしまうところで終わる波瀾万丈のストーリーである。陰々滅々と泣いてばかりいる『椿姫』の19世紀人に比べ、18世紀人ははるかに行動的だった。
ここで語られるマノン像はシュヴァリエを通しての姿であって、彼女自身の心理のあり方は判らない。だがマノンが「不倫」を裏切りと思っていないのは明らかである。彼女の肉体はあくまで彼女自身のもので、シュヴァリエとの幸福な関係を維持するために自分の持ちものを利用することが何で悪いのだと考えている。だから「これで三度目だ」と責めるシュヴァリエに対して、「けれどもし自分で、悪いと信じていたのでしたら、或いはそうなろうと考えたのでしたら、神さま、どうぞ私をお罰し下さいまし」などど、あっけらかんとしていられるのだ。シュヴァリエがその言い訳を認め、それでもなお彼女に従おうとした時、肉欲から始まった二人の愛は精神にまで昇華したと読める。
小説に登場する「ファム・ファタール」(運命の人。転じて悪女)の回収の仕方は様々である。書き出せばきりがないが、都合良く男の側に収まらせた小デュマの『椿姫』、ぎりぎりのところで女を捨て去ることで男を回復させたダシール・ハメットの『マルタの鷹』(1930)、死んだ女に生命まで持って行かれたジェームズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1934)のなかで、特に魂をさらわれる思いがするのは『郵便配達……』だろう。これについて、「外に対しては犯罪人であったが、二人の愛は純粋だった」と評した人がいたが卓見だった。『マノン・レスコー』はこれに劣らぬ世代を超えた純愛名作として読み継がれなければならない。
フランス革命を挟んだこの100年間に何が起きたのだろうか。永竹由幸氏著『オペラになった高級娼婦』によると、この間に起きたのはカトリックの性道徳の変貌で、18世紀のような教会による性の「押さえつけ」が、19世紀にはほとんどなくなったのだそうだ。そういった文脈で読むと、マノンの行動は抑圧に対する激しい闘いとして読め、マルグリットのほうは、性に対する抑圧が減った分だけ内省的になったとも読める。小デュマはこの風潮を巧みに利用し、マノン・レスコーを「男にとって都合の良い女」マルグリット・ゴーティエに落とし込んでしまったという訳だ。男にとって女の「自己献身」は安心して読めるが、女の「自己解放」には戸惑い、尻込みしてしまうところがある。女として自律するマノンは現代フェミニストの権化たり得ると思う。
物語は名門の出である17歳の学生、シュヴァリエ・デ・グリューが修道院に入るためにやってきた年下のマノン・レスコーに一目惚れしてしまうところから始まる。マノンの出自は明らかでないが、近衛兵の兄がおり、付き添って来た老監督官(召使い)に向かって、「修道院入りは明日に延ばした」と勝手に予定変更が出来るところからも、中流以上の家の出と推察される。奔放な娘の行く末を懸念した親によって意に添わない修道院に入れられようとしているのである。シュヴァリエも彼女を見た途端に「官能の感情」に捕らわれた、と正直である。二人はその晩のうちに遁走し、「お互いの愛撫において慎み」がないほど身を任せ、「結婚の計画」を忘れてしまう。彼女の傍にさえいられれば満足なシュヴァリエに対して、贅沢こそが生きる喜びであり、それ故に美しさが更に増す彼女と一緒に暮らすには、「恋愛にも金が要る」。それから3年余りのうちに、マノンが金持ち貴族の誘惑につられてシュヴァリエを捨てること3回、マノンがもくろむ詐欺行為でシュヴァリエが牢獄につながれること2回、脱獄1回。ついには父からも見捨てられる。捕らえられ、アメリカに流刑されるマノンについてヴァージニアに渡るが、正式な夫婦と認められず、マノンが開拓村住民と強制結婚させられるのを逃れて荒野をさ迷う途中、マノンが死んでしまうところで終わる波瀾万丈のストーリーである。陰々滅々と泣いてばかりいる『椿姫』の19世紀人に比べ、18世紀人ははるかに行動的だった。
ここで語られるマノン像はシュヴァリエを通しての姿であって、彼女自身の心理のあり方は判らない。だがマノンが「不倫」を裏切りと思っていないのは明らかである。彼女の肉体はあくまで彼女自身のもので、シュヴァリエとの幸福な関係を維持するために自分の持ちものを利用することが何で悪いのだと考えている。だから「これで三度目だ」と責めるシュヴァリエに対して、「けれどもし自分で、悪いと信じていたのでしたら、或いはそうなろうと考えたのでしたら、神さま、どうぞ私をお罰し下さいまし」などど、あっけらかんとしていられるのだ。シュヴァリエがその言い訳を認め、それでもなお彼女に従おうとした時、肉欲から始まった二人の愛は精神にまで昇華したと読める。
小説に登場する「ファム・ファタール」(運命の人。転じて悪女)の回収の仕方は様々である。書き出せばきりがないが、都合良く男の側に収まらせた小デュマの『椿姫』、ぎりぎりのところで女を捨て去ることで男を回復させたダシール・ハメットの『マルタの鷹』(1930)、死んだ女に生命まで持って行かれたジェームズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1934)のなかで、特に魂をさらわれる思いがするのは『郵便配達……』だろう。これについて、「外に対しては犯罪人であったが、二人の愛は純粋だった」と評した人がいたが卓見だった。『マノン・レスコー』はこれに劣らぬ世代を超えた純愛名作として読み継がれなければならない。
deadlyfriend
あまりのご都合主義的展開に辟易し、一人の女性をここまで愛せるものなのかといった疑問も湧いたが、現代ドラマにも通ずる意外性に加え、映像では表現不能な緻密な心理描写がこの作品に不滅の価値を与えている。
段落分けされていないのでひと休みしづらいが、退屈一切なしの目くるめく展開が続くため思いのほか一気に読める(それでも読了まで数日かかったが・・・)。
まだ情熱という言葉が今ほど軽薄でなかった時代の、一青年による誇り高き純愛ぶりが涙をそそる一方、それを適当にいなす美女との間で繰り広げらるドタバタのあんばいが絶妙であり、娯楽性も抜群な文学作品だと思いました。
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楢諦
自分は、追うよりも追われる側でしたから、主人公のことが羨ましいですね。
masumiyo
悪女の話なんだと思ってましたが、意外に純愛ものだったんだなぁ、と思いました。最後は、本当の夫婦になりたいがために、未婚であった事を告げたばかりに、マノンは死に至る...だらしないのは、彼の方でしょうね。ま、こういう自分の身に絶対起こらないような話を読むとストレス解消になりますね。
XP
ファム・ファタール(男を破滅させる女)のマノンの描写を知りたくて読んだが、それ以上に、シュヴァリエ・デ・グリュのだめさ加減が強烈。美しい女にめろめろになるのは分かるが、なんともお金にだらしない。いかさま賭博をするは、詐欺はする、そして、何かあると友達に恵んでもらってなんとも思わない・・・だめじゃん。この貴族出身のぼんぼんは、とも思う。
しかし、現代にも通じる設定だ。美しくて可憐で、でも、贅沢と快楽が大好きな美少女と、まじめなんだが、恋に一途でお金を注ぎ込んでしまう男。確かに、これを修道士が書いたというんだから(しかも自叙伝?)、おそるべし、フランス文学。
ストーリーは若干違うものの、プッチーニのオペラを聴きながら読むと味わいが増します。
しかし、現代にも通じる設定だ。美しくて可憐で、でも、贅沢と快楽が大好きな美少女と、まじめなんだが、恋に一途でお金を注ぎ込んでしまう男。確かに、これを修道士が書いたというんだから(しかも自叙伝?)、おそるべし、フランス文学。
ストーリーは若干違うものの、プッチーニのオペラを聴きながら読むと味わいが増します。
三太夫
「私たちの唯今のようなありさまでは、貞節など馬鹿げた徳だと思いませんか。パンに不自由しながら人は恋を語れるのでしょうか」とのマノンのセリフは、時代を超える普遍性を有する。
1731年にこんな作品が書かれているというのだから、フランス文学恐るべし。静謐で順風な人生に、情熱が侵入してくるというのは、西洋文学の伝統的な手法だが、それにしても主人公シュヴァリエ・デ・グリューのひたむきな情熱と愚かさは並ではない。それでこそマノンの存在が生きてくるというもの。それにしてもよくマノンのような登場人物を設けたものだ。作者のアベ・プレヴォは修道士だったというから驚く。
何度も何度も、ほとんど罪の意識など感じていないだろうと思うぐらい、気軽にシュヴァリエを裏切るマノン。それでも許さざるを得ないシュヴァリエ。マノンが裏切る理由が経済にもとづいているのも興味を引く。ドライサーの「シスター・キャリー」、あるいは菊池寛の「真珠夫人」など、古今東西を問わず、優れた小説家は恋愛と経済の問題をないがしろにしない。
1731年にこんな作品が書かれているというのだから、フランス文学恐るべし。静謐で順風な人生に、情熱が侵入してくるというのは、西洋文学の伝統的な手法だが、それにしても主人公シュヴァリエ・デ・グリューのひたむきな情熱と愚かさは並ではない。それでこそマノンの存在が生きてくるというもの。それにしてもよくマノンのような登場人物を設けたものだ。作者のアベ・プレヴォは修道士だったというから驚く。
何度も何度も、ほとんど罪の意識など感じていないだろうと思うぐらい、気軽にシュヴァリエを裏切るマノン。それでも許さざるを得ないシュヴァリエ。マノンが裏切る理由が経済にもとづいているのも興味を引く。ドライサーの「シスター・キャリー」、あるいは菊池寛の「真珠夫人」など、古今東西を問わず、優れた小説家は恋愛と経済の問題をないがしろにしない。
remomi *
「どうにもならない情熱! あぁ! お父さんは恋の力をご存知ないのですか。僕を生んで下すったお父さんの血が、今までに僕と同じような情熱を感じないって、そんなことがありましょうか」 *マノンとの盲目的な恋に落ちたデ・グリューを親の顔に泥を塗ったと詰る父親に向かってデ・グリューが叩きつける言葉。
マノンは、デ・グリューを愛しているにも関わらず金がなくなると、金持ちの男に走ってしまいます。贅沢な生活に憧れる女性の典型と言えるでしょう。小悪魔のようなマノンではあるけれど、不思議なことに、彼女の描写に肉体的特徴が欠落しているのは、修道士プレヴォーの一面を覗かせている。
「椿姫」同様の泥臭い仏文学であるが、僕は仏文学的な<愛>の表現はとても好きです。またこの書物は「椿姫」を深く読み解くのに重要な一冊です。
マノンは、デ・グリューを愛しているにも関わらず金がなくなると、金持ちの男に走ってしまいます。贅沢な生活に憧れる女性の典型と言えるでしょう。小悪魔のようなマノンではあるけれど、不思議なことに、彼女の描写に肉体的特徴が欠落しているのは、修道士プレヴォーの一面を覗かせている。
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